父の看病のために失われた入社一年目のお盆休み【035】

どうも、てつです。
前回(自分は心身ともに余裕がないのに病気の父と祖母に元気をあげなければならなかった【034】)引き続き、過去の記憶を辿りながら、私がうつになった原因を探っていきます。
今回は、5つの病院で「治療できません」と言われ続け、6つ目の病院にして、ついに父のがんの手術が決行されたときの話です。
手術決行
2015年の8月、父のがんの手術が決行されました。
母と弟と祖父と私の4人で、朝5時台のの電車に乗って、自宅から片道2時間の距離にある、父が入院している病院に向かいました。
病院につくと、父は手術着に着替えていました。
「いよいよこの時が来たのだ」
と父本人を含め全員が期待と不安の入り混じったような気持ちで覚悟を決めました。
「きっとうまくいくよ。手術中もずっと祈ってるから。」
私はそう父に伝え、握手をしました。
点滴や本人確認などの手術前準備を終え、いよいよ父とともに手術室に向かいました。
普段冷静な父も、臨戦態勢に入り緊張している様子でした。
手術室の前で、私と母と弟と祖父の4人で、もう一度父に励ましの言葉をかけて、送り出しました。
「これが父との最期のやりとりになりませんように。どうか、生きて戻ってきますように。」
先生を信じて、父の生命力を信じて、ただ祈ることしかできませんでした。
いよいよ手術が始まりました。
7時間に及ぶ大手術
父が手術室に入った後は、うまく腫瘍が取れるように祈り、心の中で父を励ますことしかできませんでした。
長い長い、待機時間の始まりです。
手術の付添人用の待合室は、地下にあったため窓のない壁で囲まれた空間で、息が詰まりました。
その日は朝4時に起きた影響で寝不足だったため、仮眠をとろうと思いましたが、待合室の側を病院関係者の方々が、慌ただしく行き来していたため、全く落ち着くことはできませんでした。
仕方がなかったので、家から持ってきた本や漫画を読むことにしました。
私と母と弟の3人で、手塚治虫先生の名作漫画である「ブラック・ジャック」を読みました。
ご存知の方ばかりだと思いますが、この漫画は「ブラック・ジャック」と名乗る無免許の天才外科医が、神業的な技術で様々な難病の患者を救う話です。
6つ目の病院にして、
「ついにリアル・ブラック・ジャックとも呼べるような素晴らしい医師に出会うことができた」
と思いました。
思い返せば、がんの発覚から約半年間、病院を転々としながら検査を受けることしかできず、効果のある治療は何一つ受けることができていませんでした。
この時初めて、治療効果の見込まれる処置を受けることができたのです。
「日本中どこの病院を探しても父のがんを手術できる人はいない」
と5つ目の病院の医師から言われたときには、家族全員が諦めかけました。
それでも、諦めずに情報をかき集め続けた結果、掴んだチャンスでした。
手術結果
非常に難しい手術であったにもかかわらず、手術は成功しました。
しかし、手術前から指摘されていたように、手術中に大量の出血がありました。
その量、何と約17[L]でした。
体重60[kg]の男性の全身の血液量が大体5[L]と言われています。
したがって、手術における出血量は、全身の血液が3回以上入れ替わってしまうほどの量だったと言えます。
大量出血により、一時は低血圧のショック状態に陥り、生死をさまよったことを、手術後に医師から伝えられました。
しかし、父は何とか持ちこたえました。
片方の腎臓は腫瘍との癒着が激しかったため、腫瘍といっしょに摘出しました。
消化管との癒着は激しくなかったため、剥離することができたため、失わずに済みました。
合併症の心配もありましたが、ひとまず一命を取り留めました。
再発のリスクなども考えられましたが、その時は、ただひたすらに、手術が成功し、父が生きて手術室から出てきたことを家族全員で喜びました。
失われたお盆休み
父の手術は、ちょうどお盆休みの時期に行われました。
当時私の勤めていた会社のお盆休みの連休と丸被りしていました。
手術日の前までは、
「もし手術中に万が一のことがあれば、父とはもう一生話すことができなくなる」
ということが考えられましたので、手術前までの期間も休みを返上して、父の病院に通いました。
前回の記事にも書きましたが、病院は自宅から片道約2時間の距離にありました。
2時間面会して家に帰ったとすると、6時間はかかる計算です。
父の病院に行った日は、一日の大半がつぶれました。
手術の当日は、朝4時に起きて病院に行き、一日中手術の付き添いをしました。
手術時間は7時間でしたが、父が麻酔から覚めて面会できる状態になるまでにはさらに多くの時間がかかりました。
実際には10時間以上、病院で父の手術が終わるまで待機しました。
手術が終わってからも、術後の回復を早めるために、お盆休み中は毎日のように父の病院に通いました。
また、過去の記事でご紹介したように、祖母も余命あとわずかと言われていましたので、お盆休み中は病院をはしごして、祖母の面会にも何度も行きました。
ゴールデンウィークの時と同じように、私はお盆休みに心身を休めることができませんでした。
(関連記事:父の看病のために失われた入社一年目のゴールデンウィーク【030】)
本当は、自分自身も体調が優れず、また会社への不信感などから働くことに精神的な苦痛を感じていました。
お盆休みの連休を利用して、心身を解き放ち、自分の人生のあり方について時間をかけてゆっくりと思いを巡らせたかったのですが、それも叶いませんでした。
「父親が大変な時だからこそ、長男の私がしっかりしなければならない」
と自分に言い聞かせて頑張ってきましたが、もはや限界が近づいていました。
私がうつを発症するまで、残り約1か月です。
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