自分は心身ともに余裕がないのに病気の父と祖母に元気をあげなければならなかった【034】

どうも、てつです。

前回(唯一心の支えだった彼女すらも私から遠ざかっていった【033】)に引き続き、過去の記憶を辿りながら私がうつになった原因を探っていきます。

今回は、6回目の転院先で、ついに父のがんを手術することが決まった話です。しかし、手術には高いリスクが伴っていました。

父のがん治療の最後の光

父は5つの病院をたらいまわしにされ、どこに行っても効果のある治療は何もできず、ついには主治医から

「なす術なしです」

と言われました。

 

「もう、緩和ケアをしながら、がんに侵される苦しみに耐え、死を待つことしかできないのだ」

と家族全員が思っていました。

 

そんな時に、奇跡が起きたのです。

 

SNS経由で、父の高校の時の同級生が、父の患っている非常に珍しいがんに詳しい医師だということが分かりました。

その同級生の医師を経由して、なんと同級生の師匠である大先生に診てもらえることになったのです。

国内における、父の患っていた珍しいがんの、治療の第一人者ともいえる先生に診てもらえることになったのです。

 

4つめの病院の先生に事情を説明し、その大先生のいる6つ目の病院への紹介状を書いてもらって、転院することが決まりました。

 

その大先生でも手術できなければ、

 

「もう本当に父は死を待つだけだな」

 

と家族全員が直感しました。

失われた休日

当時の私の生活はというと、平日は会社に出勤して朝から晩まで仕事をし、休日は父と祖母の病院に面会に行って、2人を元気づけるというものでした。

 

祖母の病院は、自宅から車で30分ほどの距離でした。

2時間面会したとすると、移動時間を含めて毎週3時間を祖母に捧げたことになります。

 

父の病院は自宅からとても遠く、電車やバスを利用して、片道2時間ほどかかりました。

2時間面会すると、移動時間を含めて6時間もかかりました。

それだけで、1日の大半が終わってしまいました。

 

毎週、土曜日は祖母の病院に行き、日曜日は父の病院に行くといった感じでした。

丸一日を使って、病院のはしごをしたこともありました。

 

病院のはしごなどをして、何とか時間を捻出し、彼女に会って楽しいひと時を過ごしたとしても、デートの終わりの頃には、

「また明日から苦しい時間が始まってしまう」

ということを思い出し、辛くなって泣いていました。

(関連記事:唯一心の支えだった彼女すらも私から遠ざかっていった【033】)

 

自分自身も体調が優れなかったため、休日はしっかりと休みたかったのですが、それも叶いませんでした。

「自分の人生は果たしてこのままでよいのだろうか」

と思い悩んでもいましたから、本当は自分の人生のあり方について、時間をかけてじっくりと見つめ直したかったです。

しかし、それも叶いませんでした。

 

自分の体を休めるのではなく、入院した病人に時間を割いて会いに行き、元気をあげて励ますことに、自分の時間を使いました。

自分のことを考えるのではなく、父や祖母の病気のことを心配することに、自分の時間を使いました。

 

心身ともに休む暇がなかった私は、日に日に弱って行きました。

しかし、私よりも病んでいる家族がいましたから、私が倒れるわけには行きませんでした。

 

逃げ場がなかった私は、精神的にも肉体的にも限界まで追い込まれていきました。

お父様の手術をするにはご家族全員の同意が必要です

過去の記事で、何度かご紹介しましたように、父のがんは非常に珍しく、腫瘍のできた位置や腫瘍内部に通った太い血管の影響で、これまで5つの病院で、

「手術できません」

と言われ続け、たらいまわしにされていました。

 

中には、

「日本中どこの病院に行っても、あなたのがんを手術することができる医者は一人もいません」

と父に言い放った医者がいたほどでした。

 

 

6つ目の病院で、ついに手術にチャレンジしてくれるという凄腕の医師に出会うことができたものの、手術の難易度が下がった訳ではありませんでした。

 

 

6つ目の病院の医師は言いました。

「手術には、高いリスクが伴います。腫瘍と臓器が癒着している場合は、それらも一緒に摘出します。腎臓1つと消化管の一部は失う可能性があります。手術の決行に当たっては、お父様ご本人と、そのご家族・ご両親全員の同意が必要です。」

 

つまり、どういう意味かというと、

「あまりにも危険な手術だから、手術中に父が亡くなる可能性があります。父本人を含めて、家族全員がそれでもチャレンジして欲しいと言わない限りは、手術はしません。」

ということです。

 

腫瘍と一緒に臓器を摘出する可能性があるということや、手術には家族全員の同意がいることなどを考えると、父のがんが、如何に深刻であったのかということが、お分かりいただけると思います。

 

医療訴訟の問題などがあり、

「お医者さん側も大変なんだろうな」

と思いました。

 

今までたらいまわしにされ続けた5つの病院の先生と、6つ目の病院の先生との大きな違いは、

「保身のためにリスクの高い手術を避けるのではなく、例え危険な手術であっても成功する見込みがあればチャレンジする」

という姿勢があることだと思います。

父の手術にチャレンジすると言ってくれた先生は、本当に素晴らしい人格者でした。

 

変な例え話ですが、

「この先生ですら父の命を救えないのなら、諦めがつく」

と思ってしまうほど、素晴らしい先生だったのです。

 

5つ目の病院の先生のように

「病気を診て、人を見ず」

のような人ではなく、

父の命や人格を尊重し、家族の心情にも寄り添い、配慮してくださるようなお方でした。

 

 

 

いくら危険な手術だとは言え、このまま何もしなければ、父は近いうちに亡くなるということは目に見えていました。

 

父本人も、

「もうこれ以上はがんの苦痛に耐えきれない。なんでもいいから早く解放されたい。」

という様子でした。

 

家族全員で、

「先生、どうかよろしくお願いします。」

と言って、手術の同意書に、署名をしました。

 

「やっとこれで手術ができるんだ」

と思うと、とても嬉しかったです。

 

しかし、その反面

「もし父が手術中に亡くなってしまったら、どうしよう」

という不安も頭をよぎりました。

 

しかし、失敗したときのことを考えても仕方がありません。

その時はただ、父の手術がうまくいくように祈りました。

 

 

そして私は、父を励ますために、自分の時間を捨てて、自宅から片道2時間かかる、父の入院している病院に毎週通いました。

 

 

 

私のうつが発症するまで、あと約2か月です。

 

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プロフィール

てつと申します。

 

1991年生まれ

某大学の工学系の学科を首席で卒業後、東証一部上場の機械部品メーカーに就職

入社約半年でうつを発症し退職

1年ほどの無職療養期間を経て近所の小売店でアルバイトを開始

うつ発症から約2年後、主観的にうつは完治したと実感

2018年現在、
・週に35時間のアルバイト
・食料を半自給するための菜園の運営
・ブログの運営
の3つの活動を中心に生活している。

 

このブログでは、

私がうつ病を発症した原因の分析、うつのどん底から立ち直った方法、

うつを通して得られた人生に対する深い気付き、

うつ病経験者としてこれからの人生をどう歩んでいくかの思索

などを紹介しています。

 

詳細な自己紹介はこちらのリンクからどうぞ。

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