父のがんが進行するにつれて追い込まれていった私の精神【032】

どうも、てつです。

前回(新卒で配属された部署の上長の発言から漂うブラック企業臭【031】)に引き続き、過去の記憶を振り返りながら、私がうつになった原因を分析していきます。

今回は、効果的な治療が受けられないまま父のがんが進行していくにしたがって、私の精神も追い詰められていった話です。

藁にもすがる思いで5つめの病院へ

4つ目の病院でも父のがんは外科的手術が不可能だと診断されました。

4つ目の病院の主治医から、

「リスクの高い手術に果敢に挑戦する医師集団がいる病院がある」

ということで、5つ目の病院を紹介されました。

 

腫瘍の発見から約5か月、何の治療もできないまま、ただ時間だけが過ぎて行き、父は日に日に衰弱していました。

藁にもすがる思いで、5つ目の病院に転院しました。

手術不可能です

これまで4つの病院を転々としながら受けてきた様々な検査結果や、CTスキャンの画像などをすべて持って、5つ目の病院に行きました。

4つめの病院の主治医からは、

「転院先で手術ができなければ、外科的に治療することは不可能でしょう。別の方法を考えるしかないです。」

ということを告げられていました。

 

5つ目の病院の担当医に、これまでの経緯や、各検査の結果、これまでの病院での診断結果などを伝え判断を仰ぎました。

担当医は言いました。

 

「手術は無理です。日本中どこの病院に行っても、あなたのがんを手術できる医師はひとりもいないでしょう。うちの病院でできることと言えば緩和ケアくらいなもんです。それか、民間療法でも紹介しましょうか?」

 

こちらにとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際で、不安と希望を抱きながら、やっとの思いで辿りついた病院でした。

 

父の命や人権がとても軽く扱われていると感じました。

「病気を診て、人を診ず」とはよく言ったものです。

まさにそんな感じの対応でした。

 

「医者様、神様、仏様…どうかお助け下さい」

というすがる思いで頼ってきた患者や家族の心情などお構いなしでした。

家族全員が、打ちひしがれました。

外科手術の最後の可能性が打ち砕かれた瞬間でした。

高額な先進医療を試しますか?

4つめの病院に戻り、5つ目の病院で、手術はできないと診断されたことを、主治医に伝えました。

すると、主治医から次の提案を受けました。

 

「まだ、国内で認可が下りたばかりの、高額な新薬がありますが、試して見ますか?1錠4000円の薬で、一日2錠から3錠服用することになります。」

 

背に腹は変えられませんでした。

このまま何もしなければ、父は衰弱して死ぬだけでした。

「お金の問題ではありません。極わずかでも治療できる可能性があるのなら、その新薬を処方していただきたいです。」

と父は言いました。

 

それからその新薬を服用し始めました。

薬の副作用で父の頭髪や眉毛などのあらゆる毛が真っ白になりました。

 

祈る思いで1か月ほど新薬を服用していましたが、思うような効果は得られず、いよいよ

「なす術なし」

という状況になりました。

崩れていく私の体調

当時私の勤めていた会社は、とある機械部品メーカーでした。

技術系の部署に、私が本配属されてから約2か月が経っていました。

 

私の配属された部署の仕事は、取引先の会社が希望している部品の形状と、自社の生産技術で実際に製造出来る部品の形状の擦り合わせを行う部署でした。

 

三次元のモデリングソフトを使って、パソコンの画面上で部品の構造を再現し、部品の形状の調整を毎日行っていました。

一日の大半をパソコンの前で過ごしてモデリングソフトで部品を作りました。

そして、時々取引先に出張して、自社の技術で生産可能な部品の形状と、取引先の会社の求める部品の形状を擦り合わせて妥協点を見つける会議をしていました。

 

取引先の会社とのやり取りは当然ながら大変なのですが、社内の部品生産に携わる部署の技術者や、生産現場の作業者とのやり取りも大変でした。

 

取引先からも、自社の生産現場からも叩かれる、板挟み状態の苦しい部署でした。

 

以前の記事でも何度か触れたように、私は大学時代に自分が何がやりたいのかもわからないまま就職活動をし、消去法的で消極的な方法で就職先の会社を選びました。

したがって、当時勤めていた会社の事業内容に興味があるわけでもなく、自分の部署の仕事である機械部品のモデリングも面白いとは感じませんでした。

 

これまで、

「自分はこうあるべきだ。こうした方が得だ。こうした方が将来が安定しそうだ。」

といった、自分の外側にある基準によって、人生選択を繰り返してきた付けが回ってきた瞬間でした。

(関連記事:何がしたいのか分からない。やりたい研究も就きたい職業もない【026】)

 

中学生から大学生まで、

「自分が何を感じ、何を思い、どう考えたか」

という自分の内側にある基準でなく、

  • 親にこう言われたから。
  • 先生にこう言われたから。
  • テレビでこう言っていたから。
  • 本にはこう書いてあったから。
  • インターネットにはこう書いてあったから。
  • 友達がこう言ってたから。
  • 恋人がこう言っていたから。
  • 常識的に考えてこうだから。
  • 一般的にこうだから。
  • みんなそうしているから。
  • こうした方が安全だと言われているから。

といった、自分の外側から入ってきた言葉や知識に、自分を当てはめて人生選択をしてきた付けが回ってきたのです。

 

大学生までは、

「自分はこうあるべきだ」

という姿に向けて強い精神力をもって自分を厳しく律し、自分の感性・感情・本心を無視して生きていくことができました。

 

しかし、父や祖母の深刻な病気によって精神的な余裕が奪われたことにより、自分の本音を封じ込めることが出来なくなってきていました。

 

「仕事に興味が持てないし面白くないけれど、新入社員らしくやる気を出して、やるべき事を遂行しなければならない。頑張らなくてはならない。」

と自分の号令をかけてみても、思うように体も頭も働かなくなってきてしまったのです。

 

「もうこれ以上自分に鞭を打っても前に進む力が湧いてこない」

という状態に陥り始めました。

 

頭では、

「もっと頑張らなくちゃ。自分はなんて精神力が弱い人間なんだ。やればできる、やらないからできないんだ。こんなんじゃ社会人失格だ。」

と思っていました。

 

しかし、体の方は正直で、過度のストレスが身体症状として現れ始めていました。

 

いつもお腹の調子が悪く、仕事中も何度もトイレに行かなければなりませんでした。

首、肩、目は凝り固まり、体は怠く、仕事中はため息を吐いてばかりいました。

悲しくもないのに、知らない間に涙が溢れていることがありました。

休日にいくら眠っても疲れが取れなくなっていました。

 

 

私のうつが発症するまであと約2か月です。

 

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プロフィール

てつと申します。

 

1991年生まれ

某大学の工学系の学科を首席で卒業後、東証一部上場の機械部品メーカーに就職

入社約半年でうつを発症し退職

1年ほどの無職療養期間を経て近所の小売店でアルバイトを開始

うつ発症から約2年後、主観的にうつは完治したと実感

2018年現在、
・週に35時間のアルバイト
・食料を半自給するための菜園の運営
・ブログの運営
の3つの活動を中心に生活している。

 

このブログでは、

私がうつ病を発症した原因の分析、うつのどん底から立ち直った方法、

うつを通して得られた人生に対する深い気付き、

うつ病経験者としてこれからの人生をどう歩んでいくかの思索

などを紹介しています。

 

詳細な自己紹介はこちらのリンクからどうぞ。

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