自己否定による自信喪失。主観的な幸せと一般的な幸せ。【021】

どうも、てつです。

前回(感情を否定し勉強に専念したことの弊害と、当時の自分に伝えたいこと。【020】)に引き続き、過去の辛い記憶を振り返りながら、私がうつになった原因を分析していきます。

今回は、私がいかにして自己否定的な考えを持つようになっていったかという話です。

自己否定の始まり

前回もお話した通り、浪人2年目の私は、自分自身の感情・感性・直感などを、徹底的に否定して、ただ目の前のやるべき事を遂行するだけのロボットであることに徹しました。

本当はやりたくない勉強を頑張るための方法がこれくらいしか思いつかなかったのです。

自分の感覚を麻痺させていないと耐えきれなかったのです。

そうやって自分の感性が自然に捉えた感覚などを否定し続けた結果、私は自分自身が大嫌いになってしまいました。

ありのままの自分の抱く感情や、ありのままの自分の感性は、良くないものなのだと否定するようになってしまいました。

それはある意味、自分自身の存在を否定するようなものです。

これが自己否定の始まりでした。

 

生きている実感や喜び、やる気などは、ありのままの自分から自然に湧き出すものです。

決して、自分の外側から注入された「自分はこうあるべき」というイメージから湧き出る感覚ではありません。

当時の私は日々、自分の生命力が弱くなっていることを感じていました。

また、生きているという実感を感じられなくなっていました。

体の内側から湧き出るエネルギーが感じられなくなりました。

自分なんて生きている意味が無いと思うようになりました。

それほど追い込まれていたのです。

ロボットであるように徹するほど、自己否定感が強まって行きました。

謙虚と卑屈

高校生までの私は、プライドが高く、自分自身の学力や能力が実際には低くても、高いふりをして、虚栄を張って生きていました。

しかし、浪人して自分の学力のなさを思い知らされ、自分の分かるところから勉強をやり直さないといくらやっても無駄だと気づきました。

そして、苦手な数学を謙虚にゼロから勉強し直すなどしました。

この段階では、虚栄心を捨ててありのままの自分の実力を受け止め、自分の理解できるレベルから勉強をするなど、「謙虚」な姿勢であると言えます。

プライドを捨てて謙虚になるという段階で留まっていればよかったのですが、そこに自己否定が加わることで、私はだんだんと卑屈になってしまいました。

 

模擬試験などで良い成績が残せても、

「今回はたまたま点が取れただけ。浪人しているのだから現役生よりできて当たり前。」

といつも思っていました。

 

不当に自己評価が低くなってしまったのです。

 

どんなに頑張って良い成績を残しても、

自分が褒められないのです。

自分が認められないのです。

自分が好きになれないのです。

自分が愛せないのです。

 

この感覚は、うつの症状が一番酷かった時にピークを迎え、回復するとともに消えていきました。

このことから、自己否定・不当に低い自己評価・自己愛不全などの問題は、うつと密接な関係があると言えます。

 

パニック障害や自律神経失調症に悩まされている私の母も、深い自己否定感と自己愛不全を抱えていますから、人間の精神を健やかに保つうえでとても大事な要素なのだと分かります。

 

今では、私は誰になんと言われようと自分を愛することができるようになりましたし、自分を無条件で信じることができるようになりました。

どのように自分を愛し、自分を信じられるようになったのかという話は、今後書く予定の「うつの回復期」の話の中で詳しく触れていきます。

 

今回の記事では、

  • 自分の感覚や感性を否定し続けた結果、自己否定的な考え方が作り出されて、謙虚を通り越して卑屈な人間になってしまったということ
  • 自己否定・不当に低い自己評価・自己愛不全などは、うつと密接な関係があること

を紹介させていただきました。

自信と他信

自分の内側から自然に湧き出す感覚を否定するということは、自分の感性を信じないということです。

自分の感性を信じない人が代わりに何を信じるかと言えば、それは他人の言葉(感性)です。(ここでの他人とは自分以外の人という意味です。)

 

私の場合は、自分の感性を否定して信じず、その代わりに父を含め私の周囲の人達が私に言った言葉を信じていたということになります。

また、常識も他人の言葉の最大公約数のようなものです。

自分の感性を信じず本音を隠して、常識によって物事を判断して自分の人生を生きてしまうことも、他人の言葉を信じて生きることに含まれます。

 

自信ではなく「他信」といった所でしょうか。

他人の言葉はあくまで参考資料です。

きちんと自分の感性を信じることができている場合は、常識を含め他人の言葉に触れても、それを全て鵜呑みにしなくて済みます。

 

それはなぜかというと、自分の感性というフィルターに引っかかった自分にとって納得のいく情報だけを、他人の言葉からくみ取ることができるからです。

 

自分の感性を否定してしまっている場合、フィルターに大きな穴が開いた状態になっています。

そのままの状態で他人の言葉に触れると、フィルターを素通りしてすべての言葉が自分の中に入ってきてしまいます。

それにより、自分の内側が他人の言葉だけで満たされてしまい、自分の言葉を持たない状態になってしまいます。

自分の言葉を持たないというのは、自分なりの意見・信念・考え方を持たないということです。

つまり、自分がないということです。

 

それにより、他人から影響を受け過ぎてしまいます。

自分がない場合、自分が好きだな・良いなと思っていることでも、他人の言葉によって少しでも否定されると、とても落ち込んでしまったりします。

自分の感性を信じ、他人の中にもまたその人だけの感性があるということが分かっていれば、

「あの人はこれが嫌いみたいだけれど、私は好きだな」

と考えることができるのです。

 

他人の言葉が常識になったときも話は同じです。

常識も、一人一人の意見・感性・考えの最大公約数にすぎません。

多くの人が信じる「1つの意見」にすぎないのです。

 

例えば、

「良い大学に行って、大企業に入って、安定した生活を送ることが幸せだ」

という常識があったとしても、それは多くの人が信じている一つの意見だというだけの話なです。

 

私は実際に、それなりに良い大学を出て、それなりに大きな会社に入ってサラリーマンをやっていましたが、私の感性がある時、

「このままこの会社にいても私は幸せになれない」

と囁きました。

そして、私はうつになって会社を辞めたのです。

 

一言で語るのは非常に難しいのですが、あえて言うのであれば

「資本主義の負の側面を私の感性が直感した」

ということが、会社をやめた大きな理由です。

 

今私は、「常識的には」リスクが高くて不安定な生き方だとされているような生き方をしようとしています。

しかし、それも単に多くの人が信じている一つの意見にすぎないのです。

 

もう少し具体的に言えば、

「他者と緩やかな協力関係を築きながらも、誰にも雇われず、だれも雇わない」

という生き方をしようと思っています。

 

常識ではなく、自分の感性に従って自分なりの仮説や信念をもって、「常識的・一般的な幸せ」ではなく、「主観的な幸せ」を日々感じることができる人生にしたいと思い、今では毎日「自信をもって」私は生きています。

 

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プロフィール

てつが自給菜園で育てた愛しい夏野菜ちゃんたち

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ありがとうございます。

 

 

1991年生まれ。

 

某大学の工学系の学科を首席で卒業後

東証一部上場の製造業の技術職に就く。

 

入社約半年でうつ病を発症し退職。

 

約1年間の無職療養期間を経て

近所の小売店でアルバイトを開始。

 

うつ病の発症から約2年後

主観的にうつ病は完治したと実感。

 

 

2019年現在

・週に30時間のアルバイト

・食料を半自給するための菜園の運営

・ブログの運営

の3つの活動を中心に生活している。

 

このブログでは

 

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